東海道最後の難所である日ノ岡峠の改修や渋谷街道の急坂改善などの社会事業を行ったことで知られる朋厚房正禅法師〈木食正禅養阿上人・貞享4年(1687)~宝暦13年(1763)〉は、若くして禅、律、真言、天台の四宗の要義を学び、また木食行を体得するため高野山に登った。そしてさらなる高みを目指して参籠修行の場を探し求めていた。すると正徳五年(1715)、洛北一乗寺村の狸谷と呼ばれるところに高さ、深さとも2丈からなる洞窟の存在を耳にする。この中には長年風雪にさらされながらもなまめかしく輝く尊像があった。それは建長3年(1249)に安置されたものと伝わる。また慶長九年(1604)、剣豪宮本武蔵が滝に打たれて修行を続け、己に克つ不動心を感得したのもこの地と知る。この霊験を感じた朋厚法師は、この狸谷こそ自身が籠って行法を修するにふさわしい場所と決意した。狸谷山の開山、享保3年(1718)朋厚法師31歳のときであった。
狸谷を拠点とした参籠、木食行は困難を極めた。そのさなかには熊野詣の難行苦行もあり、ついには熊野権現が山伏の尊形となって現れ、鉦、鐘木、杖の三種の神宝を授かった。こうして狸谷山修験道が誕生したのである。
(公式HPより引用)