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神社とお寺の融合?少しコアな神宮寺特集!

皆さんは『神宮寺』をご存じでしょうか?神宮寺とは神社の中に建つ寺院のことを指します。神仏習合の過程でできたものであり、神宮寺を知ることで日本の神仏習合の歴史を探ることができます!今回はこの神宮寺のある神社に注目していきます!

神宮寺とは? 神仏習合とは?

冒頭で神宮寺は神仏習合の過程で誕生したものだと説明しました。しかしそれだけでは疑問もたくさんあると思います。神宮寺を紹介する前に、その前提となる神仏習合や神宮寺について分かりやすく説明します!

神仏習合ってなに?

日本で古来より信仰されていた神道と6世紀頃日本に伝来してきた仏教が融合していったことを『神仏習合』といいます。

仏教が伝来してきたことによってすぐに神仏習合が成されたわけではなく、長い年月をかけ徐々に神と仏が融合していくこととなりました。その過程に挙げられるのは八坂神社の祇園祭が有名な『御霊会』や神が仏の姿として造られた『神像』などがあります。仏教伝来から約600年以上の時間をかけて神仏習合は発展していきました。

しかし、明治期に政府による神仏分離政策で神仏習合はいったん終わりを迎えることとなります。

神宮寺ってなに?

神宮寺とは神社の境内に建つ仏教寺院のことをいいます。神仏習合の初期段階に成立したもので、古いものだと奈良時代初期に建てられています。明治時代の廃仏毀釈によりそのほとんどが残っていませんが、その存在は発掘調査により確認されています。

神社の中に仏教寺院が建つようになった理由は、日本の神様は仏教徒の一員として考えられるようになったからです。奈良時代あたりから神自身が悩みを抱え、仏教に救いを求めるとされるようになりました。神宮寺は神が自身の救いのために建てられたお寺です。

神宮寺のあったとされる神社

気比神宮(気比神宮寺)

気殿神宮《敦賀観光協会より引用》

福井県敦賀市に鎮座する気比神宮。北陸を代表するパワースポットとしても有名です!ここには神宮寺があったとされる記録が残されています。また、室町時代に描かれたとされる『気比神宮寺古図』にも神宮寺が描かれています。気比神宮に神宮寺が建てられたのは霊亀元年(715年)で時代でいうと奈良時代初期にあたります。これは現在確認されている中で一番古い神宮寺とされ、現在残っているわけではありませんが日本最古のものとなります。

宇佐神宮(弥勒寺)

宇佐神宮《九州風景街道より引用》

大分県に鎮座する宇佐神宮は全国的に有名な神様である八幡様が祀られている神宮です。ここにも神宮寺の存在があったと確認されています。宇佐神宮の神宮寺は通称「弥勒寺」と呼ばれています。弥勒寺は幕末の頃に描かれた『蓑虫山人絵日記』にも残されています。神宮寺としての歴史は一つ前に紹介した気比神宮寺と並んで古いもので、全国的に勢力をつけ発展した神宮寺の一つでした。このことから宇佐神宮は「神仏習合の発祥地」ともされています。

弥勒寺は現在は残っていませんが、かつて弥勒寺の本堂にあった薬師如来坐像は寄藻川向こうの大善寺、講堂にあった弥勒仏坐像は横町通り沿いにある極楽寺に安置されています。

大神神社(三輪神宮寺)

大神神社《奈良公式観光サイトより引用》

奈良県に鎮座し、三輪山でも有名な大神神社。神社の歴史としても日本最古の神社の一つとして数えられています。大神神社には神宮寺が三つありましたが、その中で最も古いものが三輪神宮寺です。大神寺とも呼ばれます。三輪神宮寺も奈良時代建てられたもので、古い神宮寺の一つです。現在はその遺構に大直禰子神社が建てられており、本堂の柱の一部には奈良時代のものが使われているようです。

若狭彦神社(若狭神宮寺)

若狭神宮寺《小浜市公式行政サイトより引用》

福井県小浜市に鎮座する若狭彦神社の神宮寺として建てられた若狭神宮寺。この神宮寺は奈良時代に建てられた神宮寺の中で唯一現存する神宮寺になります。現在も神事が行われており、参拝もできるようになっています。若狭神宮寺で有名なのが「お水送り」という神事です。「お水送り」は毎年3月2日に行われ、若狭神宮寺から組んだお水を2キロ離れた「鵜の瀬」と呼ばれる河原まで運び、奈良の「若狭井」に送ります。10日で奈良まで届くと言われており、奈良の東大寺で「お水取り」という神事が行われます。

神宮寺が建立されるようになったのはなぜか

神宮寺は神仏習合が成される始めの段階から建立されるようになりました。これは時代が流れるとともに増えていき、平安時代にはほとんどの神社に神宮寺が建てられていたと言われています。

神宮寺が建てられるようになった理由には諸説ありますが、神が仏教に救いを求める存在であるという思想が生まれてきたからだといいます。しかし、先ほど紹介したような初期の神宮寺が建てられた頃はまだ仏教より神道の方が力が強いと考えられていたという説もあり、実際のところまだ不明な点が多くあります。

仏教の伝来により日本古来より存在した神道は神宮寺の形成から大きく変化していきました。仏教との融合を図るために神社の前で仏教経典を読む『神前読経』や神宮寺に勤め仏事を行う『社僧』という僧が登場しました。

神宮寺がなぜ建てられるようになったかは明確には分かっていませんが、それが神仏習合における過程の初めての可視化される存在なのは確かです。

興味を持った方は神宮寺について調べて自分なりの説を立てるのも面白いかもしれません。

神と仏の関係

これまでも説明してきたように古代から神と仏は近い存在でありました。古代における神は、苦悩し仏教に救いを求めるように考えられてきたことが神仏習合のはじまりです。

その後神仏習合はさらに発展していくこととなります。そこで生まれたのが『本地垂迹説』と『神本仏垂迹説』という考え方です。この二つは相反する思想ではありますが、ともに神仏習合によって生み出された考え方になります。

『本地垂迹説』

平安時代頃に発展した思想です。神と仏は同一のものとされ、日本の神々は仏の仮の姿であり、日本の実情に合わせて仏が神の姿として日本の地に現れるというもの。

『神本仏垂迹説』

鎌倉時代初期に発展したものです。『本地垂迹説』と対する思想で、神が真の姿であり、仏が神の仮の姿であるというもの。『本地垂迹説』を否定する動きの中で生まれた思想です。

この二つの思想は神仏習合の代表とされる考え方です。鎌倉時代頃には神と仏は一体のものと考えられるようになり『本地垂迹説』が可視化されたような垂迹像(神が仏の姿として造られた像)などが造られるようになりました。垂迹像として代表されるのが東大寺に現在も残っている僧形八幡神像です。

僧形八幡神像《國學院大學博物館 所蔵》

他にも各地で神像が造られていきました。

また、「御霊会」ともいわれる神社で行われる祭礼も神仏習合の過程で生まれたものです。「御霊会」で有名なのは日本三大祭りの一つとして有名な京都八坂神社の「祇園祭」です。他にも令和2年から再興した北野天満宮の御霊会などもあります。御霊会というのは国の安寧や疫病退散を願って平安時代頃に始まった儀式で、神仏習合の一例としてよく挙げられるものです。

北野御霊会の様子《「いろり」より引用》

このように神道と仏教が融合していった神仏習合は様々な文化や考え方を生み出しました。神と仏は違うもののようで実はとても近い存在なのです。

まとめ

いかがだったでしょうか?

神宮寺ひとつを取っても奥深いですよね!意外と知られていない神仏習合のお話もこの記事で興味をもっていただけたら嬉しいです!

是非気になったことがありましたらご自身でも調べてみてください!